24. こまごめ楽座 (2)



 〈こまごめ楽座〉の朝は、抜けるような青空だった。早起きをした私は、おにぎりをたくさん作った。海苔と卵のふりかけを混ぜ込んだ素朴なおにぎりを、たくさん作る。出店するみんな、きっと忙しくてごはんを食べる暇もないだろうから、片手でぱくっと食べられるおにぎりがあると助かるはずだ。朝を食べずに来る人もいるかもしれない。食べ物に関する仕事をしている以上、誰かがひもじい思いをしているのは嫌だった。
 

 朝のラジオからは、静かな音楽が聞こえる。今日はどうやら、16世紀のフランスの合唱音楽みたい。朝早く起きるようになって、こういう知らない音楽とも親しめるようになってきた。演歌しか知らなかった去年の自分が聞いたら、きっとびっくりするだろう。




 ちなみに平日の朝は、「古楽の楽しみ」という番組を聞きながら、恒例となった朝ノートの時間を愉しんでいる。朝ノートというのは、その日のやることや心構えを書いたり、その日のエネルギー配分を円グラフにして考えたりするものだ。15分くらいの僅かな時間だけど、朝ノートの時間を持つようになってから、落ち着いて一日を過ごせるようになった気がする。


 おにぎりを握り終わって、ふう、とひと息つく。ずいぶん、たくさん出来た。その中からふたつ取り上げて、皿にのせる。鼻歌まじりで、昨日の残りの蕪のお味噌汁が入った鍋に火をつける。お味噌汁から湯気が立ってきたので、卵を割り入れる。いい具合に、黄身がピンクになってきた。お椀によそって、七味をふる。おにぎりの載ったお皿とお椀を木のお盆に乗せて、箸を置く。簡単だけど、朝ごはんの出来上がり。


 窓辺には、朝日が差し込む。私は目を細める。たくさんの人が、来てくれたらいいな。そういえば、マダムもご主人と来てくれるって言ってくれてたな。ゴメスもふらっと遊びに来ないかしら。私は、ゴメスが〈こまごめ楽座〉にひょっこり顔を出す様子を想像して、微笑んだ。ゴメスが来てくれたら、みんな大騒ぎだろうな。ゴメスがたくさんの人に囲まれて、ちょっぴり居心地よくないような、でも嬉しそうな顔になっている様子を想像しながら、私はおにぎりの最後のひと口を食べ終わった。
 

 集合は8時半だから、まだ時間がある。今のうちに、今日の家事を片付けてしまおう。洗濯機を回し、クイックルワイパーでフローリングの部屋を拭く。炊飯器のお釜や、お皿やお椀、お箸を手早く洗って、水を切る。なんとなくそわそわしているのか、普段はざっと拭くだけの棚も、念入りに磨く。


 ラジオがニュースに切り替わったので、CDに切り替える。ドビュッシーのピアノ曲集だ。まさか、こんなにクラシック音楽が身近なものになるなんて……と苦笑する。ドビュッシーのピアノ曲集は、マダムがプレゼントしてくれたものだ。いつか、百塔珈琲さんに行った時に流れていたピアノ曲が素敵だったと、何気なく口にしたのを覚えていてくれたらしい。恐縮すると、「調味料のお礼よ」と言って、チャーミングにウインクした。それ以来、ドビュッシーは我が家のレパートリーに加わった。特に好きなのは、「月の光」という曲だ。




 音楽に合わせて、今朝の珈琲は百塔さんの深煎りのコロンビアにしよう。豆を計って、機械のミルのスイッチを入れる。挽きたての珈琲が一番美味しいと教えてくれたのは、ミドルガーデンさんのバリスタさんだった。コーヒーミルは、思い切って買ってよかったグッズのひとつだ。
 

 水を入れたやかんに火をつける。その間に、コーヒードリッパーを準備する。ペーパーフィルターをたたみ、セッティングする。ミルで挽いた珈琲の粉を入れる。いい具合にお湯が沸いたので、カップに注いで温める準備をする。「の」の字を書くように、お湯をゆっくり回し入れる。最初に、珈琲の粉を起こしてあげるんだな、と思う。珈琲が目覚めていくこの瞬間が、とても好きだ。2回目も、ゆっくり。ぽたり、ぽたり。ゆっくり滴がおちていく。3回目は少し長めにお湯を注ぐ。
 

 珈琲をこうやって淹れるってこと、なんにも知らなかったな。私は目を閉じて、ほんの数ヶ月前を思い返す。コンビニのコーヒーばかりがぶ飲みしていた、引越し前。あの頃に比べると、もしかしたら「ていねいな暮らし」ってものに近づいているのかもしれない。でも、それは決してドラマチックな変化ではなかった。駒込で出会った人たちと過ごしていくうちに、グラデーションのように緩やかに、毎日の暮らしが少しずつ育っていったんだ。


 目をぱちりと開ける。温まったカップに、珈琲を注ぐ。ああ、いい香り。朝にゆっくり珈琲を愉しむ時間を持つようになったのも、ちいさな変化のひとつだ。少し早めに家を出て、駒込駅の北口すぐの大國神社さまに今日の無事を祈ってから、〈こまごめ楽座〉に向かおう。私は頷き、香り高い珈琲をひと口飲んだ。きっと、いい一日になるね。
 






 
 (つづく)





駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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