7. 林檎とゴルゴンゾーラ
オペラやバレエの舞台美術の仕事の第一線を走り続けてきたマダムに、オペラについて尋ねるLINEを送ってから、私の心臓はどきどきしていた。既読がついたかどうかも、なんだか緊張してしまって見ることが出来ない。私は気持ちを切り替えようと、ノートパソコンの上の書類を手に取る。そうだ、もともとはここ、MIDDLE GARDEN COFFEE STANDで仕事をしようと思って来たんだった。
書類に目を走らせて思考を巡らせていると、バリスタさんが珈琲を運んできてくれた。
「わあ……」
その珈琲に、思わず声が上がった。バリスタさんが運んでくれた木のトレーの上には、珈琲の入ったビーカーと、白いカップが乗っている。よく見ると、ビーカーとカップの間には小さな札がある。何て書いてあるのかしら?と目を近付けてみると、「温度変化による味や香りを楽しんでいただくために、コーヒーとカップを分けて提供しております。熱いコーヒーがお好みの方は、一度にお注ぎください。」と書いてある。こんな注意書き、初めてだ。私は目を丸くする。珈琲って、そんな繊細な飲み物だったのね。
ひとまず、淹れたての珈琲をカップに注ぐ。ふわあっと湯気が立ち昇る。香りが鼻をくすぐる。どこか華やかな、でもしっかりとした香り。珈琲の味わい方の流儀は分からないけれど、まずは自分の感覚に頼ってみる。そして、カップを唇に付ける。温かい。珈琲を淹れる前に温めたカップを使ってくれているのね。
ひと口飲むと、ふんわりとした温かさに包まれた。頬が緩んで、肩の力がほどけていく。ああ、そっか、私、緊張していたんだ……と、自分を客観的に眺めることが、ようやく出来た。池袋に移ったばかりの本社の環境を整える手伝いをずっとしてきたり、今回の自社商品を使ったレシピサイトの立ち上げでも責任ある立場を任されたりして、ずっと肩に力を入れて、歯を食いしばったまま、ぎりぎりと自分を締め上げて、自分に鞭打ってきたのかもしれない。少なくとも、夜更けまでノンアルコールビールとエナジードリンクを何本も開けながら働くようなやり方は、何らかの無理を重ねていることを示しているのだろう。エナジードリンクとアルコールの組み合わせは肝臓に負担をかけるだろうからという理由で、いつもノンアルコールビールを選んでいたが、それは問題の本質的な解決には繋がっていない。きっと、根深いところで、私はずっと、人生に対して無理を重ねていたのかもしれない。
「栞さんは食べ物に関する大事なお仕事しているんだから、たくさん美味しいもの食べて、ご自身の感性を磨いて差し上げて」
マダムの言葉が蘇る。確かに、その通りだ。いろんな人の暮らしの彩りを豊かにしたいと思って、食べ物の会社を志望していたのに、気がつけば自分の暮らしがモノクロになっていた。出かけると言えば会社と自宅の行き帰りだけで、好きな中華はかろうじて外食でなんとか補給して、エナジードリンクの常用に頼って仕事して……。そうやって、息もたえだえの中で生まれたプロダクトで、本当に人の暮らしを豊かにしていくことが出来るのだろうか。
私は思いを巡らせながら、ブレンドをもうひと口飲んだ。さっきよりも少しぬるくなった珈琲を口に含むと、ふんわりと柔らかく香りが広がる。あれ、さっきよりもなんだか角が取れて、丸い味わいになってる。私は驚いて、珈琲を見つめる。そして、小さな注意書きの札をもう一度眺める。「温度変化による味や香りを楽しんでいただくために、コーヒーとカップを分けて提供しております。」……そうか、こういうことなのね。こんなに珈琲の味わいや香りに集中したことって、多分初めての経験だ。これまでいつもチェーン店で無意識に頼んで、仕事の相棒として飲んでいたけれど、丁寧に一杯ずつ淹れられた珈琲って、こんなに味わいが違うんだ。前言撤回、確かに珈琲は繊細な飲み物だ。食べ物の仕事を何年も続けているのに、いつも飲んでいた珈琲のこともよく知らなかった自分が、なんだか恥ずかしくなった。
「お待たせいたしました」
珈琲を眺めて思いにふけっていると、先程のバリスタさんが林檎とゴルゴンゾーラのトーストを運んできてくれた。マダムが薦めてくれたトースト、きっと自分では頼まなかった食材の組み合わせだ。林檎とゴルゴンゾーラ、この組み合わせは、思いつかなかった。
フォークとナイフでひと口大に切り分けて、口に運ぶ。思わず、目を丸くした。なにこれ、すごく美味しい。薄めの食パンにベシャメルソースが塗ってあって、その上にハムと林檎、そしてゴルゴンゾーラが乗っている。ゴルゴンゾーラの主張がもっと強いのかなと思っていたけれど、そんなことは全然なくて、林檎の甘みとハムの塩気、そしてクリーミーなベシャメルソースと絶妙なハーモニーを奏でている。それを、薄めでカリカリした食感のトーストが全部受け止めてくれているから、上の柔らかい味わいとのコントラストもすごくいい。これは……美味しい。控えめに言っても、すごく、すごく、ものすごく美味しい。マダムが推薦してくれた理由も、よくわかる。
と、そこにスマホが震えた。少し気になったが、今はこのトーストに集中して向き合おうと決める。そう、このトーストも温度の変化によって味わいがどんどん変わってしまう。口の中を引き締めてくれる珈琲との組み合わせを愉しみながら、久しぶりに自分の味覚が覚醒していくような、不思議な感覚を覚えた。確かに、食べ物の仕事をしているのに、私は自分の味覚をずっと蔑ろにしてきた。味覚だけじゃなく、五感の全てを祖末に扱ってきたのかもしれない。それはつまり、自分の人生そのものを蔑ろにする行為だったのではないか……と思い至って、私はぞっとした。ああ、もしかしたら私は今、人生の大事なターニングポイントに立っているのかもしれない。これまで通り、自分の暮らしはモノクロのままでいいと無意識のうちに諦めていく道か、それとも、いったん立ち止まって考え直して、自分の人生を大事に育て直していく道か。
そもそも駒込に引っ越そうと決めたのも、自分の暮らしを、人生を変えたかったからだ。それまで暮らしていた居心地のいい部屋から抜け出して、新しい環境に飛び込んで、新しい人生を始めたかったからだ。でも、部屋がなかなか見つからなくて苦労して、そんなところに今のマンション、そしてマダムと出会って……。
私は、今のマンション「ヘーヴェ駒込」に出会った時の事を思い返した。公園でセブンイレブンの珈琲を飲んでいて、そのすぐ後に出会った、レモンイエローの外壁とサーモンオレンジの扉を持つ、緑と花に包まれた美しい建物。そうだ、どこか外国のおとぎ話に出て来るような、あの色鮮やかな美しい建物に出会って、そしてマダムに声をかけてもらえてから、私の時間は動き始めたんだ。私は、ほんの2ヶ月ほど前のことを懐かしく思い返した。
せっかく動き始めた時間を、前に戻してはいけない。私は小さく頷き、林檎とゴルゴンゾーラのトーストの最後のひと口を頬張る。そして珈琲を飲み、ふうう、とひとつ長い息を吐く。ああ、美味しかった。こんなに味覚を研ぎ澄まして、フル回転させたのは、いつ以来のことだろう。そして、食を通じてこんなに自分をいたわったのは、いつ以来のことだろう。そうだ、食べることはこんな風に、人をいたわり、和ませることが出来るんだった。私も、こんな感覚をたくさんの人に味わってもらいたい……そんな思いが、お腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
この思いをエネルギーにして、プレゼンのドラフトを固めてしまおう。そう決めて、パソコンを開く。すると、パソコンの通知画面にLINEの新着を知らせるメッセージが浮かんでいることに気がついた。クライアントがLINEでメッセージを投げてくることもあるので、パソコンにもLINEを入れているのだ。さっきのスマホの通知はこれかな、と思いながらLINEを開く。
私の胸は、どきんと鳴った。マダムからの新着メッセージが届いていたのだ。
(つづく)
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