18. 出港 (1)
「さすが、旅の出港地ね。マスター、ありがとう」
「どういたしまして」
カフェ・ポート・ブルックリンのマスターは、人のいい笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。仕事道具を入れた鞄を肩にかけたマダムは、私を真っ直ぐに見つめた。その真っ直ぐな視線に、私はどきっとした。
「栞さんも、どうぞ悔いのない、いい旅を」
マダムは大きな笑みを残し、颯爽と去っていった。
「マダム、行っちゃいましたね」
「いつも、風のような人だよね」
マスターは、白い歯を見せて笑った。
「栞さんが来るまで、マダム、すごく悩んでいたんだよ」
「えっ?」
「あんなマダム、初めて見たな。でも、栞さんと話しているうちに、表情が柔らかくなって。そして、風と共に……だね」
信じられない。マダムでも、そんなに深く悩むことがあるなんて。
「そう……なんですね」
「うん。栞さんが、悩みをほどくきっかけになったんだろうなあ」
「そうなんだ……」
私は胸の底がほんのりと温かくなるのを感じた。なにかはわからないけれど、私がきっかけで、マダムにとって役に立てたのなら、よかった。
私は、大きなジャーに入ったアイスカフェラテを飲みながら、さっきのマダムの言葉を反芻する。
──栞さんも、どうぞ悔いのない、いい旅を。
さて、私はどんな旅の途中なんだろう? さっきのマダムとの会話もきっかけになって、駒込に来てからのことを、私は思いめぐらせた。
麻婆豆腐のレトルトパックや中華調味料を扱う、業界では老舗のうちの会社が池袋に移転になってから、新しい部署にも配属された。自社商品を使ったレシピサイトの運営も軌道に乗り、料理研究家の方を招いて動画を作ったり、SNSのフォロワーの方々を集めて料理コンテストを開いたりするようにもなった。
そうやって、以前よりも忙しさは増しているはずなのに、不思議と駒込に引っ越して来る前よりも健康的な生活を送っている。そういえば、引っ越してくる前に住んでいた街では、毎週末に近所の有名店で餃子とビールで夕食を済ますことがざらだった。企画のプレゼン前には、大きな缶のエナジードリンクを片手に、明け方近くまでパソコンに向き合っていた。家は、ただ眠りに帰る場所で、終電近くに帰ってくるとシャワーを浴びて、ベッドにごそごそ潜り込むのが日常だった。
けれど、今は──。私は昨日の夜から、カフェ・ポート・ブルックリンに来るまでのことを思い返した。そういえば、金曜の夜も早く帰るようになった。自社製品のサンプルをもらうことも多くなり、レシピの開発などにも携わっているので、自然と台所に立つ時間が多くなった。昨日の夜は、ナンプラーを出汁に使ったにゅうめんに、うちの麻婆豆腐をかけて、卵黄を真ん中に乗せたもの。卵白は、にゅうめんの出汁に溶いて入れて、優しい味になるようにした。出来上がりのアクセントに、小口切りにして冷蔵庫にストックしてある小ネギを散らした。それから、ゆっくりラジオを聞きながらお風呂に入って、シートパックで肌を整えて、日付が変わる前には布団に入った。
今日の土曜日の朝は、目覚ましのアラームが鳴る前に、目が覚めた。ラジオを聞きながら身支度を整えて、朝ご飯を作って、ゆっくり食べた。朝ご飯なんて、滅多に作らなかったのにな。そう思い至って、ふふっと笑う。そうね、駒込に来てから、私、きっと変化し続けている。
──では、ここからどんな旅が始まるんだろう?
「おはようございまーす!」
明るい声が聞こえて、私は考え事から現実に戻った。
(つづく)
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