17. カフェ・ポート・ブルックリンの朝 (3)



「マダム、考え事ですか?」



 いつの間にか席に戻っていた栞が、声をかける。そして、大きなジャーに入ったアイスカフェラテの氷をかき混ぜる。からんからんという音が涼しげに響いた。その音を聴いているうちに、口がすっと開いた。



「そうね、考え事。珍しく、悩んじゃって」



 マダムは、自分の唇から放たれた言葉に軽い驚きを覚えた。これまで重要な判断は全て、自分で決めてきた。相談されても、することは殆どなかった。けれど、扉は開かれた。いや、彼女自身の意思で開けたのかもしれない。とにもかくにも、マダムは自分自身の無意識の決断に従ってみることを決めた。



「新しい仕事のオファーが来たのだけど、いつになく悩んじゃってね」

「どうしてですか?」

「さあ……。その作品が、自分にとって非常に特別な作品だから、かしらね」



 栞はマダムを見つめ、アイスカフェラテに視線を落とした。そして、なにか言葉を探すように、大きなジャーに入ったアイスカフェラテの氷をかき混ぜる。しばし、沈黙がふたりを柔らかなヴェールのように包んだ。


 しばらくの後、栞は懐かしむように店内を見回した。



「初めて、マダムとお茶をしたのも、このブルックリンさんでしたよね」

「……そうだったわね。栞さん、西中里公園の前でうちのマンションを見上げてらしたのが気になって、それで声を掛けて」

「そうそう。あの時は、物件を探していたけれど、どこもNGだったんですよね。心折れかけて、東口のサンエトワールさんで買った卵サンド食べて、鳩にパン屑投げてました」



 そして、栞は明るく笑った。そうだ、そうだった。あの時の栞は、心もとなげな表情で、自分が何をどうすればいいのか分からないような顔をしていた。けれど、どこかでその状況を面白がっているような風情もあって、不思議な人だと思ったのだった。栞の話を聞いているうちに、どんどん好感が深まっていって、この人が近くに暮らしていたら、毎日が楽しくなるかもしれない……と思い立って、空き部屋のことを切り出したのだったと、マダムは当時のことを懐かしく思い返した。





「そういえば、マダムにずっと尋ねてみたかったことがあるんです」

「なにかしら」

「うちのマンション、『ヘーヴェ駒込』って名前ですよね」

「ええ」

「『ヘーヴェ』って、どういう意味なんですか?いくら調べてみても、インターネットではそれらしい言葉が見つからなくて」

「ああ」



 マダムは微笑む。



「『ヘーヴェ』はね、デンマーク語で『庭』って意味なの。この駒込には、六義園も、旧古河庭園もあるでしょう。そして、うちのマンションは西中里公園の前でしょう。それで『庭』を意味する、デンマーク語の『ヘーヴェ』を名付けたの」

「そうだったんですね。でも、どうしてデンマーク語?」

「それは、主人と出会って、初めて一緒に仕事をしたのがデンマークだったからよ」

「素敵! そういえば、今日はご主人は?」

「初台に、オケのリハに出かけたわ。今度の公演がもうすぐでね」



 マダム──時子は、夫と出会った二十年前を懐かしく思い返す。駆け出しの指揮者だった夫・俊作は、時子の7歳年下だ。デンマークの王立劇場で、劇場付きのスタッフとして入っていた俊作とは、いい仕事仲間だった。自然と距離が縮まり、俊作と共に生きることが彼女にとっての日常に変わっていくまでには時間はかからなかった。時子の実家があった土地を相続して、マンションに建て替えたのは、二人の拠点を日本に戻すきっかけにもなった。俊作と二人で相談して、「ヘーヴェ駒込」と名付けたマンションの外観のデザインは、時子が担当した。俊作と出会い、共に仕事をしたデンマークの色鮮やかな町並みが、「ヘーヴェ駒込」のデザインの源となった。そんなことを、懐かしく思い返した。



「庭は、人の暮らしと社会を優しく結んでいく場所だな、って昔から思っていてね」

「確かに、そうですね」

「そう。駒込は特に庭園や公園の多い街でしょう。だから、私達が作る家も、そんな優しい、そして風通しのいい場所であれたらいいなと願って」

「そっか。開かれた場所、ですね」

「そう、開かれた場所……」



 栞の言葉を繰り返して、マダムは目を見開いた。〈開かれた場所〉。そして、対となるのは〈閉ざされた場所〉。〈開放〉、そして〈閉鎖〉──これだ。



 《トリスタンとイゾルデ》という作品にとっても、〈開放〉と〈閉鎖〉は大きなキーワードとなる。愛の薬を飲み、宿命的に惹かれ合う恋人たちは、本来は惹かれ合ってはならない運命のもとに暮らしている。そう、彼らの愛はふたりだけの〈閉鎖〉された時間の中で育まれていく。しかし、その〈閉鎖〉された時間は、やがてこじ開けられ、秘密は暴かれてしまう。けれど、その秘密の愛の苦しみは、最後には〈開放〉され、ふたりは永遠の〈夜〉に溶けていく。〈夜〉は、あらゆる〈閉鎖〉も〈開放〉も包み込み、ただ静かにそこにたゆたい続ける──。




 マダムの脳裏に、川の流れのように様々な場面の映像が浮かんだ。色彩が溢れ、身体中を流れていく。めくるめくイメージの激流に、マダムは目を閉じ、身震いした。



──見えた。繋がった。



 マダムは、うっすらと微笑んだ。しばし、色彩の激流の余韻に身を浸した後に、静かに目を開いた。



「栞さん、ありがとう」

「え?」

「あなたのおかげで、全てが繋がったわ」






 そして、マダムは立ち上がった。クロッキーノートと鉛筆を手早く鞄に入れる。急いで帰って、演出家にメールを打たなくちゃ。この仕事、いまの私だからこそ出来る。やらせてくれって。



「あ、マダム、これも持って行ってくださいな」



 栞はあわてて、調味料の入った紙袋を渡す。マダムは紙袋を受け取り、そして優しく栞の手を握った。



「栞さんのおかげよ」

「そんな、私はなにも……」

「いいえ。大事なことを思い出させてくれた」



 マダムはぐるりとカフェ・ポート・ブルックリンの店内を見回した。



「さすが、旅の出港地ね。マスター、ありがとう」

「どういたしまして」



 マスターは、人のいい笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。鞄を肩にかけたマダムは、栞を真っ直ぐに見つめた。



「栞さんも、どうぞ悔いのない、いい旅を」



 そして、マダムは大きな笑みを刻み、一歩、外へ踏み出した。






(つづく)





駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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