16. カフェ・ポート・ブルックリンの朝 (2)


「マダム、おはようございます」



 作業に没頭していると、頭上に明るい声が聞こえて、マダム──舞台美術家・澤松時子は顔を上げた。マンション「ヘーヴェ駒込」の住人、堀口栞の笑顔を確認し、マダムも口元が緩んだ。手で座席を示すと、栞はぺこりとお辞儀をして、腰を下ろした。カフェ・ポート・ブルックリンのマスターが水の入ったグラスを持って来る。



「朝は、ご注文をレジでお願いしますね」

「あ、そうでしたね」

「どうぞ、ごゆっくり」



 マスターは頭を下げ、にっこりと笑う。



「栞さん、どうぞお好きなものを頼んで」

「ありがとうございます、でも今朝はもう、朝ご飯食べちゃって」

「あら」



 マダムは目を丸くした。引っ越してきたばかりの頃は、いつも栞の土曜の朝は遅く、食事もろくに取らないことが多いと聞き、それをマダムは心配していた。事あるごとに用事を作っては差し入れを持たせたり、野菜ジュースを持たせたりするように心がけていた。仕事になると身を削って取り組む栞の姿が、若い頃の自分と重なって見えたからかもしれない。



「今朝は何を召し上がったの?」

「簡単なものですよ。おにぎりと、卵焼きと、お味噌汁と……」

「まあ、素敵ね」

「実はね、最近、お味噌汁にはまってて。今朝はオクラとミニトマトとベーコン、それにちょっぴりの牛乳と、粉チーズと黒胡椒でアクセントつけてみました」

「その組み合わせ、美味しそうね」

「でしょう? Twitterで知ったレシピを真似してみたんです」



 そして栞は明るい声で笑った。つられて、マダムも口元が緩む。そういえば、栞さん、よく笑うようになったわ。そんなことに思い至り、マダムは胸の内で小さく安堵した。



「だから、今朝は飲み物だけで大丈夫です。マダムとブルックリンさん来られるんだったら、海老とアボカドのサンドイッチ食べたかったな」

「何になさる?」

「いいんですよ、私もマダムに会いたかったので。それにマダム、お仕事中だし」



 立ち上がろうとするマダムを手で制し、栞は小さな生成りのトートバッグを持ってレジに向かった。アイスカフェラテください、という栞の後ろ姿を見つめるマダムの口元には、微笑みが刻まれた。





──さて、ここからどうするか。



 マダムは、クロッキーノートを見つめ直した。クロッキーノートの横には、別便で演出家から届いた今回のコンセプトや、資料をまとめたファイルが鎮座している。夜中に眠れないままに、届いた資料のプリントアウトをし、一冊のファイルにまとめ直したのだ。


 知的かつ革新的なアプローチで、作品に新たな方向から光を当てるこの演出家とは、何度も他の歌劇場で、そして他の演目で、一緒に舞台を作り上げてきた。だから、深い信頼関係も結べている。その上で、マダムの定本とも言える《トリスタンとイゾルデ》の舞台デザインを、まったく新しいアプローチで作ってほしいというオーダーが届いた。英語で書かれたメールには、「あなたの芸術的な判断のすべてを、信頼しています」とも書かれていた。


 この有難い言葉も、ずっしりと重たく感じた。そして、逡巡して動けなかった。ようやく腹を括って、ラフスケッチをざっと描き始めてみたものの、しっくりはまっていないのは自分でも感じていた。



──このまま進めても、違う駅に到着してしまうから、ここでやり直しにしましょう。



 マダムは深い息を吐いて、ラフスケッチを見つめた。そして、日付と共に、「001」と番号をふった。思考の過程は蓄積させておくのが、これまで培ってきた仕事のやり方だ。





「マダム、考え事ですか?」



 いつの間にか席に戻っていた栞が、声をかける。そして、大きなジャーに入ったアイスカフェラテの氷をかき混ぜる。からんからん、という音が涼しげに響いた。その音を聴いているうちに、口がすっと開いた。



「そうね、考え事。珍しく、悩んじゃって」



 自分の口から放たれた言葉に、マダムは驚いた。これまで重要な判断は全て、自分で決めてきた。相談されても、することは殆どなかった。



──けれど……。



 マダムは、胸の内の小さな変化の兆しを愛おしむように、深く目を閉じた。そして、ぱちりと目を開き、栞を見つめた。栞はアイスカフェラテのストローを手に、静かにマダムを見つめている。まるでライラックの花のようだと、マダムは思った。





 

(つづく)





駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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