3. 旅の出港地


 公園前のレモンイエローの建物で、銀髪の女性から声をかけられてから3時間後。私は、その女性と六義園の近くのお洒落なカフェで向かい合っていた。


「今日は、本当にありがとうございました」


 私はぺこりと頭を下げる。


「いいのよ、私もちょうど新しくあの部屋に入ってくださる方を探そうとしていたところだったから。あの不動産のお店も懇意にしているところだったから、ちょうどよかったわ」


 そして澤松さんとおっしゃる、その銀髪の女性は優雅にビールのグラスを傾けた。私は、もう一度お辞儀をした。



 そう、何の縁かはわからないのだが、いつの間にか私は、公園前のレモンイエローのマンション「ヘーヴェ駒込」の最上階に住むことになっていた。



 急に声をかけられて、最初は私も見ず知らずの人に警戒していた。けれど、澤松さんは聞き上手だった。それにつられて、駒込が好きになって住みたくなったこと、けれど部屋がどうしても、何をやっても決まらないという経緯をぽつぽつと話しているうちに、澤松さんはこんな提案をしたのだ。


「先週ちょうど、うちの403号室が空いたばかりなんだけど、よければあなた、ご覧にならない?」


 私はぽかんとした。


「今日も不動産のお店に行ったって言ってらしたわね。どちらのお店?」

「あの、えっと、北口のフェリーチェ……」

「フェリーチェプランニングさんね。あそこの社長さんはよく知ってるわ。じゃ、行きましょうか」

「え、どこへ?」

「フェリーチェさんよ。こういうことは、専門家に入ってもらった方がいいからね。ほら、行きますよ」


 そして、澤松さんは、すっと伸びた背筋と大きな歩幅で、早足で歩き始めた。私は慌てて、ロイヤルブルーのセーターの背中の後を追った。



 それからは、とんとん拍子だった。そう、澤松さんはこのマンションの大家さんだったのだ。社長さんも、先程は平謝りしてくれた、人のよい担当さんも立ち会いの上で、私はヘーヴェ駒込の403号室の内覧に向かい、理想を大きく上回る条件と、設定範囲内の予算に腰が抜けそうに驚いて、その場で申込の書類を書いた。澤松さんは、穏やかに微笑みながら、一連の流れを眺めていた。


 一度、審査も通っているし、問題なく契約作業も進むだろうという見通しが立ち、不動産屋さんの社長さんも、担当さんも帰っていった。何が起こったのかよくわからないまま、その背中をぼんやり見送っていると、澤松さんが声をかけた。



「よければ、六義園の近くに素敵なカフェがあるのだけど、ご一緒してくださらないかしら?」


 振り向くと、大きな目とワインレッドの鮮やかな唇が、にっこりと笑った。その笑顔に惹きこまれて、私はこくんと頷いた。




 今、目の前で優雅にビールのグラスを傾ける澤松さんを見ていても、この3時間の間に何が起こったのか、よくわからない。これまで、2ヶ月ちょっとの間、ずっと探し続けてきて、何度もうまくいきかけては頓挫して、道は全て閉ざされたと感じて、もう諦めようかと思い始めていたところで、澤松さんに声をかけられて、急に流れが変わった。いったい、どういうことなんだろう。


「どうしたの、鳩が豆鉄砲くらったような顔をして」


 澤松さんは、にっこりと微笑んだ。


「いえ、あまりにもスムーズにいきすぎているので、これが現実なのか、うまく信じられなくて」

「そうよね、これまで大変な思いしてらしたものね」

「そうなんです……」


 そう、そうだったと思い返す。うまくいきそうと期待をかけてみたものの、段々と雲行きがあやしくなって、最後には流れてしまう。その度に、じゃりじゃりとした泥団子を食べるような思いをしてきた。部屋探しのことだけではない。仕事も、プライベートも、そんな思いを重ねてきた。そうなってくると、胸をえぐられるような空虚さとの向き合い方にも段々と慣れてきて、自分なりの処方箋も出来てくる。傷の癒し方も分かってくる。時間はかかるものの、這い上がるやり方を、ゆっくりと学んできた。


 けれど、今回のパターンは、今までとは全く違う。スムーズだ。あまりにも、スムーズにいきすぎている。頭と心が現実についていかない。



「あのね、栞さん。うまくいく時って、不思議と時間はかからないの」

「え?」

「きっと何かがうまくいく時って、これまでの延長線上にある答えを求めている時じゃないの。これまでとは、まったく違った角度から眺めてみたり、違うフィールドに足を踏み入れた時に、求めていた以上の答えが得られたりするの」

「求めていた以上の答え……」

「そう。でも、それにはちょっとした勇気が必要なのよね。これまで慣れ親しんできたやり方を手放して、両手を空にして、身軽になって、一歩踏み出してみる勇気。栞さんも、きっとそうだったんじゃない?」

「そう……なんでしょうか」

「そうだったんじゃないかしらね」



 そして、澤松さんはにっこりと笑った。それにつられて、私も微笑んだ。大きなジャーに入ったアイスコーヒーを飲む。濃いめのたっぷりしたアイスコーヒーが、火照った頭と心を冷やしてくれる。落ち着いて、店内を見回す。煉瓦調の壁、落ち着いた雰囲気の店内にいる人たちは、それぞれの時間を寛いで過ごしている。パソコンに向かったり、穏やかな語らいの時間を過ごしたり、互いを尊重する大人の雰囲気が漂っている。そして澤松さんは、このお店にしっくりと馴染んでいる。


「すごく、いいお店ですね。落ち着きます」

「そうでしょう。ガレットも美味しいし、ブルックリン・ラガーも飲めるし、とても気に入ってるのよ」

「ブルックリン・ラガー、いいですね」

「そう、樽から提供してくれるの。他にもブルームーンや、グースアイランドも飲めるのよ。もちろん、珈琲も美味しいけれどね」


 澤松さんは、チャーミングにウインクをした。私は思い切って、気になっていたことを尋ねてみることにした。


「あの、澤松さん」

「みんな、名字じゃなくて〈マダム〉って呼ぶから、それでいいわよ」

「そしたら……マダム、ひとつお尋ねしていいですか?」

「どうぞ」

「どうしてさっき、私に声をかけてくれたんですか?」


 澤松さんは……マダムは、私をじっと見つめた。そして、ゆっくり微笑んだ。


「あなた、なんだか面白そうな人だったから」

「え?」

「面白そうな人、わたし好きだから。なんだか、わくわくしちゃうの。そういう理由じゃ、だめ?」

「だめ……じゃ、ないです」

「よかったわ」




 そして、マダムは笑って、美味しそうにビールを飲んだ。その様子を見ていると、なんだか気持ちが軽くなった。



「栞さん、このお店の名前、ご存知?」

「いえ」


「『カフェ・ポート・ブルックリン』っていう名前。ご店主が、アメリカ東海岸のブルックリンのカフェに立ち寄られた時に抱かれた思いがベースになったお店なの。そして、ここが最初の港、出港地。ここからきっと、航海の旅が広がって、色んな港に立ち寄っていくのね」



 私は、改めて店内を見回した。



「あなたの旅も始まる港になるかしら。栞さん、駒込へようこそ」



 そして、マダムはグラスを軽く上げた。私も微笑み、アイスコーヒーの入ったジャーを軽く上げた。





駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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