4. 土曜の、遅い朝に

「栞さん、いまお宅においでかしら? 銀座のスモークサーモンを頂いたからお裾分けしたいのだけど、どうかしら」



 マダムからのLINEで、土曜日の遅い眠りから目が覚める。あらら、もうこんな時間。慌てて、ソファーから身を起こす。部屋には書類が散らばり、さつき通りのれんげ食堂で買った餃子のパックや、セブンイレブンで買ったノンアルコールビールとエネルギードリンクの缶がごろごろと転がっている。暖房がつけっぱなしで、喉がからからだ。どうやら昨日はソファーに寝そべって仕事をしながら、寝落ちしてしまったらしい。


 駒込に引っ越してから3ヶ月が過ぎた。いつの間にか年が変わり、私もひとつ歳を重ねた。そして、気がつけば仕事がぎゅうぎゅうに忙しくなっている。うちの会社は麻婆豆腐のレトルトや中華のスパイスとかを専門に扱っているのだけど、先月の会議で自社商品を使ったレシピサイトの開発にもっと力を注いでいこうということになったのだ。そのプレゼンが来週火曜にあるのだけど、なかなか考えがまとまらない。何度も目を通した書類に再び目を通し、ひとまず、ざっとまとめて束にする。餃子のパックをざざっと洗ってゴミ箱に入れて、ごろごろとだらしなく転がっている缶を片付ける。



「あと10分したら、そちらに伺います」



 急いで、画面に指を走らせる。スウェットを着替え、顔を洗い、歯を磨く。もさもさの髪をまとめて、ひとまず眉毛だけ書いて、呼吸を整えて、マダムの暮らす2軒隣の角部屋に向かう。



「栞さん、ごめんなさいね。起こしちゃったわね。昨日も遅くまでお仕事?」

「はい……」

「あんまり無理しちゃだめよ」

「週明けに大事なプレゼンあるんですけど、なかなか考えがまとまらなくて」



 マダムはふう、と息を吐いて上を見る。放っておくと、いつまでも仕事をし続ける私の性分を知って、マダムは土曜日ごとにLINEをくれて、今日みたいに差し入れをくれたり、お茶に誘ってくれたりして、なんやかんやと世話を焼いてくれている。



「私も若い頃は根詰めて仕事をやっていたけど、自分を磨り減らすような仕事の仕方だと、長持ちしないわよ。私もそれで、無理がきかなくなったんだから。自分が心地よい感覚を失わないライン、腹七分目くらいを心がける位が、栞さんみたいなタイプにはちょうどいいと思うけどね」

「すみません……」

「まあ、もっと緩い感覚の人には逆のこと言うけどね。自分の涯ての、その先の先までアクセル踏んでみろって」



 マダムはそう言いながら、サーモンの入った紙袋に野菜ジュースの缶を手早く放り込む。




 私の住むマンション「ヘーヴェ駒込」の大家さんである澤松さんは、オペラやバレエなどの舞台美術のデザイナーとしてずっと第一線を走り続けてきた人だと、引っ越してから徐々に知った。フランスや北欧でも仕事をしてきたり、コンテストで入賞した経験もあるらしい。そうした舞台の現場で国内外を問わず、ただ〈マダム〉と言えば、いつの間にか澤松さんを指すようになったと、Webの記事で知った。仕事の先輩として、こうやってぽろっと洩らす一言に、彼女の美学が感じられて、その度に背筋が伸びる。



「今日はいいお天気だから、気分転換に外で仕事をしてみたら?」

「外で?」

「そう。緑がたくさんで、すごく居心地のいいカフェが霜降銀座の少し手前にあるんだけど、Wi-Fiも繋がっているから、お仕事で使う人も結構多いのよ」

「へえ」


 好奇心が動く。


「シングルオリジンの焙煎にもこだわっておいでだし、他にも美味しいメニューもあるからブランチにどうかしら。林檎とゴルゴンゾーラチーズのトーストとか」

「あら、おいしそう」

「栞さんは食べ物に関する大事なお仕事しているんだから、たくさん美味しいもの食べて、ご自身の感性を磨いて差し上げて」



 マダムの指摘が的確すぎたので、私は何も言えなくなって、お辞儀をした。

 


 確かに、せっかくのいい天気なので、外に出ることにした。さっき教えてくれたお店の情報を、マダムがLINEで送ってくれたので、リンク先をチェックする。MIDDLE GARDEN COFFEE STAND……ミドルガーデンコーヒースタンドか。お店のWebサイトはシンプルで落ち着いている。駅前の大きな通り、霜降銀座商店街の手前のいきなりステーキの角の小径を入ったところにあるみたい。まだまだ知らないお店があるんだな、と感心しながら足を進める。



 足を進めるうちに、霜降銀座商店街の中のフタバ書店に寄ってから向かおうと思いつく。マダムからの言葉を反芻しているうちに、彼女が仕事を続ける中で、同じ街に住んでいる先輩として密かに尊敬し続けていたというドナルド・キーン先生のことを思い出して、先生の本を読んでみたくなったのだ。フタバ書店にはキーン先生のご本が揃っているから……というマダムの言葉がよみがえる。仕事の合間に、読んでみよう。そして仕事が終わったら、金魚亭の金魚たちにも挨拶しようと思いついて、明るい気持ちになった。




 と、横を見ると、マンションを出てすぐの公園の脇を歩く私の隣を、ふっくらとした、毛並みのよい三毛猫が並んで歩いている。驚いて立ち止まると、三毛猫も立ち止まる。そして、三毛猫は私を見上げた。



「最近、見るようになった顔だニャ。元気にしてるかニャ?」



 ふっくらとした、毛並みのよい三毛猫が、しゃべった。私は、目を丸くした。




(つづく)

駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

0コメント

  • 1000 / 1000