9. 真ん中の庭で


 入り口に、女性たちの明るい声が聞こえてくる。私は、我に返る。ガラス窓からは光が差し込んでいる。そうだ、こっちが現実。私はぼんやりする意識を戻そうと、冷たくなった珈琲を啜る。


 マダムから送られてきたYouTubeで、しばらく時の経つのを忘れてしまった。思いきってオペラの入り口の扉を叩いてみたら、扉を細く開いたマダムからは、凄まじいボールが投げ返されてきた。私はオペラのことはまったくわからないが、あれはきっと豪速球だ。本気の球だ。この球を受け止められたら、こっちの世界へいらっしゃい……そんなメッセージが込められているようにも思えた。


 私は、さっきの経験を思い返す。ニルソンの歌う、Liebestodと、トゥーランドット姫。ひとりの人間が、あんなにも両極端な側面を表現出来るなんて。人間の深淵を、垣間見たような気がした。でも、ぞくぞくするほど蠱惑的だ。人間の底知れない可能性を見る事が出来るのが、もしかしたらオペラという芸術なのかもしれない。


 マダムのLINE画面を開く。指を走らせる。「ぞくぞくしました。もっと、調べて聴いてみようと思います。ありがとうございます。」短いけれど、自分なりに思いを込めたメッセージを作り、送信ボタンを押す。語彙力がないのがもどかしいけれど、今はそれでいいとも思う。少しずつ、オペラの世界の欠片を集めて、モザイク画を描いていくように、気長にこの世界のことを知っていこう。欠片が集まって来たら、きっとそこには新しい世界が広がっているはずだ。


 いつの間にか、空になったカップを見つめる。混み始めた店内を見て、長居も申し訳ないな、と思う。でもせっかくだから、もう一杯、新しい珈琲を持ち帰りで頼んで、部屋で飲みながら、気持ちをぐうっと集中させよう。そう思いついたら、気持ちが明るくなって、私はカウンターに向かった。さっき見かけてちょっと気になっていた、エスプレッソとトニックウォーターが混ざった飲み物を頼む。写真を見る限りだと、ライムも入っているみたい。予想はつかない味だけど、このお店のセンスは間違いないはずだと、林檎とゴルゴンゾーラのトーストを思い出して、確信を持つ。


 出来上がったら席まで届けてくださるというので、席に戻る。改めて、ぐるりと店内を見回す。緑に包まれた、気持ちのいい空間。興味を引かれる本もいくつか飾られている。聞くともなしに、周りの声に耳を傾けていると、私と同じご近所の方もいれば、デートで駒込を訪れたカップルもいるらしいことに気付く。そうか、駒込にデートで訪れるという選択肢もあったのか。自分は暮らすようになるまで、駒込のことをこんなに深く考えたことがなかったので、盲点だったな、と思う。確かに、六義園もあれば、旧古川庭園もあるんだから、ふたつの庭園をめぐって、こんなおしゃれなカフェでお茶をするというのは、素敵な休日デートだなあ。


 そんな心豊かな休日デートをしてみたいものだわ、と思いながら、あることに気がつく。ふたつの庭園? うん? 


 このカフェの名前は、MIDDLE GARDEN COFFEE STAND。「ミドルガーデン」、なんの真ん中の庭だろう、って思っていたけれど。もしかして、六義園と、旧古河庭園の「真ん中の庭」ってことかしら。そんなことを思いついて、私はふふっと笑う。もしこの答えが当たりだとしたら、なんて素敵な由来だろう。そうでないとしても、私の中での正しい答えということにして、心の中にそっとしまっておこう。



「そういえば、さっきゴメスと、うちの店の前で会ってね」

「あら! 今日は商店街まで来てたのね」

「ええ。ずいぶん歩いてきたみたいだったけどね。そういえば、『こまごめの本は入ったのかニャ?』って尋ねられて」

「『こまごめ通信』のこと? 『こまごめ通信』は毎月出てるけど、まだ本じゃないわよね」

「ううん、春には本になるのよ。だから、うちも今から楽しみでね…それにしてもゴメスったら、どこで本になるって知ったのかしら」

「あの子、駒込のことなら何でも知ってるから」

「それもそうね」




 明るい声で笑い合う、優しそうなふたりの女性が、しゃべる三毛猫ゴメスのことを話題にしていたので、私もつられて微笑む。ゴメス、まるで街のアイドルみたいだな。猫も人も、お互いを尊重しあう街。それが、わたしの暮らす駒込という街みたい。



 そうするうちに、バリスタさんがトニックウォーターで割った、ライム入りのエスプレッソを届けてくれた。私は礼を述べて、店を出る。私の座っていた席が空いたのを見て、入ろうかどうしようか迷っていた、若い男の子の二人連れが嬉しそうに入っていく。振り向くと、休日のカフェの賑わいがまぶしかった。


 ふっと、さっきのゴメスとのやり取りが蘇る。



「ゴメスがおすすめするとしたら、どんな本?」

「それは……しおりの心が動く本が一番なのニャ」

「心が、動く?」

「そうだニャ。ぱっと見て、心が動いたら、そこにはいちばん旬な言葉が書かれているはずなのニャ。本も、魚も、旬のものがいちばんなのニャ」



 さっきのふたりの女性が話していた、ゴメスが気になった本って、いったいどんな本なんだろう、と気になり始めた。きっとそれは、ゴメスの心を動かす本になるんだろう。猫が本を読めるのかどうかはわからないけれど、ゴメスが気になる本なら、私も読んでみたいな、という思いが心をよぎった。


 ああ、これがきっと、心が動き始める兆しなのね。私は、自分の中に生まれた、ちいさな始まりに嬉しくなった。そのまま、手に持っていた、エスプレッソのトニックウォーター割りに口をつける。ライムの香りと、清涼感のあるトニックウォーターが、エスプレッソを受け止めていて、新しい味わいが生まれている。うん、思った通り、ここのお店のセンスは、間違いない。


 さあ、金魚亭の金魚たちに挨拶をして、帰ろう。そして、エスプレッソのトニックウォーター割りを飲みながら、仕事を一気に片付けてしまおう。私は背中をぴんと伸ばして、にっこり笑う。そして、不思議な「し」のキャラクター、しーちゃんが待つ霜降銀座商店街へと歩き始めた。二月の空気はふうわりと甘く、どこか春の気配を忍ばせていた。






(つづく)







駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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