10. 殿上湯との出会い


「そういえば、栞さん、殿上湯は行きましたか?」



 久しぶりに仕事が一段落ついて、のんびり過ごす土曜日。マダム澤松お気に入りの、本駒込のカフェ・ポート・ブルックリンのマスタ—が、そう声をかけてきた。マスタ—おすすめという、りんごの花の蜂蜜のクレープを頬張ろうとしていた私は、その手を止めた。



「でん……でんじょう、ゆ?」

「あ、まだ行ったことないですか? たぶん、マダムのマンションからだと、行きやすいんじゃないかと思うんですけど」

「銭湯なんですか?」

「そうそう。確か、聖学院の坂を上がってすぐじゃなかったかな」

「ああ、あの坂」



 私は、西中里公園近くの自分のマンション「ヘーヴェ駒込」から、すぐそばの聖学院の脇にある二つの坂を思い出した。学校の間をすっと上る真っ直ぐの坂と、途中に大きな木があるくねくね曲がった坂。どちらも、上までのぼりきったことはなくて、この坂の上にはどんな世界が広がっているのだろう……と思っていた。


 マスタ—はカウンターに入って、なにかごそごそ探すと、一枚の紙を持ってきてくれた。






「ほら、ここが殿上湯。旧古河庭園の交差点を右に曲がって、しばらく進んだ先の路地を右に曲がったところにあるみたいです。だから、聖学院のところの坂を上がっていくとしたら、坂を上がりきったら左に折れて、しばらく行った先を左に曲がればOKですよ」

「へえ……」



 私は、マスタ—から渡された可愛らしいデザインのペーパーをしげしげと眺めた。フリーペーパー? なんだろう、エッセイがいくつか書いてあって、可愛らしい四コママンガも載ってる。あら、このマンガの主人公、よく見たらゴメスじゃないの。このフリーペーパーのタイトルは……。



「『こまごめ通信』?」

「栞さん、『こまごめ通信』見たのは、はじめて?」

「ええ」

「駒込に住んでいる、イラストレーターでマンガ家の織田博子さんたちが作っているフリーペーパーなんですよ」

「すごく、可愛いですね」

「ね! うちの店でも毎月置かせてもらってるんです」

「ゴメスも四コママンガになってるのね」

「まあ、ゴメスはこの街の守護神みたいな感じですからね」



 マスタ—はそう言って笑った。眼鏡の奥の、優しい目が細くなる。



「よければ、それ持ってってください」

「いいんですか?」

「去年の9月号ですけど、よければ」

「ありがとうございます」

「殿上湯さん、インスタとかTwitterもやってるんで、よければ覗いてみてください。日曜の朝湯に併せて、朝湯カフェを開く日もあるそうですよ」

「いいですね、それ」

「うん、だからぜひ……、あ、いらっしゃいませ」



 マスタ—は笑顔で、軽く頭を下げて、新しく来たお客さんを席に案内する。私は、手渡された『こまごめ通信』を読む体勢を整える。冒頭には、「駒込を愛する人びと『駒込人』が発行するこまごめ通信』と書いてある。よくよく読み込んでみると、Facebookのグループもあるみたい。私はスマホを出して、Facebookでグループを検索して、参加申請を送ってみた。まだまだ、駒込のこと、知らないことがたくさんなんだなあ、と思いながら、りんごの花の蜂蜜のクレープに立ち返る。クレープの生地はしっとりとしていて、蜂蜜は香り高い。そして、輪切りのレモンがたくさん乗っていて、風味が爽やかだ。


 最初に来た時以来ずっとお気に入りの、ジャーに入ったアイスコーヒーを飲み、マスタ—の言葉を思い出す。そういえば殿上湯さん、インスタやTwitterもやってるって言ってたな。これも、検索してみよう。私は、インスタのアプリを開いて、検索をする。


 そこに出てきた写真の数々に、私は驚いた。なんだか、すごくお洒落。写真と、キャプションを指で流しながら読み込んでいく。すごい、お風呂全体を使って、写真展を開催したりもしてるんだ。そのままTwitterも開いて、検索する。見た感じは昔ながらの銭湯なんだけど、やってることがすごく尖ってて、面白い。なんだろう、この銭湯。私はわくわくしてきた。


 Twitterを開いてみると、「明日、朝湯カフェやります!」という告知が目に入った。投稿日を確認すると、今日の午前中。ということは、明日、朝湯カフェが開催されるということ? 私は、途端に胸が躍った。大きなジャーの中で氷が溶けてきたアイスコーヒーを、勢いよく吸い込んだ。





(つづく)





駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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