11. トトロの森の木


 カフェ・ポート・ブルックリンで、マスターから殿上湯のことを教えてもらった次の朝。私はタオルとボディソープをトートバッグに入れて、殿上湯に向かう準備をしていた。銭湯に行くのなんて、いつぶりだろう。大学生の時に、学祭の準備で帰れなくて、みんなで大学の近くの銭湯に行って以来かもしれない。あの時は、みんなでわいわいしながら大きな湯船につかって、湯上がりにはオロナミンCを片手に、すっぴんにTシャツジーンズで大学に戻っていって……。楽しかったな、と微笑ましく思い返す。子供の時、銭湯が近くにない新興住宅街で育った私にとっては、街並の中に佇む銭湯は別世界の入り口のようだった。学祭の楽しい思い出とも相まって、下町ワンダーランドのようなイメージとして刻まれている。


 ああ、そうだ、化粧水も持っていこう。クリームも。メイク道具は……眉毛を描くのだけ持っていけばいいか。私は綿の肌触りのいいワンピースを頭からかぶり、トートバッグを持ち、帽子をかぶる。夏も近付いてきて、ずいぶん陽射しが厳しくなってきた。私はスニーカーを履き、ドアを開ける。


 マンションの玄関を出ると、大家さんのマダム澤松が花壇の手入れをしていた。



「こんにちは」

「あら、栞さん、こんにちは。お出かけ?」

「ええ、ちょっと殿上湯さんまで」

「それはいいわね」

「朝湯カフェがあるって、ブルックリンのマスタ—に教えてもらったんです」

「よかったじゃないの。マスターも、街のいろんなことご存知ですものね」

「ええ。あ、そうだ、昨日はお野菜のお裾分けありがとうございました」

「いいのよ、ちょうど甘長とうがらしが沢山届いたからね」

「早速、教えていただいた焼き浸し作りました」

「それはよかった」


 マダムはにっこりと唇を三日月の形にした。きっちりと塗ったマゼンタピンクの口紅が、タチアオイの花のようにくっきりと鮮やかだ。


「それじゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」



 私はぺこりと頭を下げる。6月の太陽は、夏本番とまではいかないものの、十分な熱量を持っている。私は目を細めて、空を見上げる。そして、普段は足を向けることのない聖学院の方に足を向ける。


 私は、いつかのマダムとのLINEを思い返す。MIDDLE GARDEN COFFEE STANDで、フタバ書店で買ったドナルド・キーン先生の本を読んで、オペラと初めて出会った日のこと。往年のオペラ歌手、ビルギット・ニルソンのことについてマダムに質問した時のこと。マダムは、言葉で答える代わりに、ニルソンが歌う姿の動画を送ってくれた。それは、私にとって、初めてオペラの世界の扉を開いた瞬間でもあった。


 それから少しずつ、自分なりに勉強を進めている。そして、以前よりもマダムの経歴の重みが理解出来るようになってきた。たとえば、パリでワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の舞台美術を担当した、と言われても、以前なら「ふーん」と流していたかもしれない。けれど、以前よりもオペラの歴史などを学んできた今となっては、その重みをどっしりと感じる。そして、Googleの翻訳を片手にフランス語で調べた、マダムの過去の舞台はとても美しいものだった。紺碧の空にどこまでも青い花畑が広がる、抽象的な舞台。後ろには高い塔がそびえ立っている。その中で、ローズピンクの衣装を身にまとい、白い光に照らされ向き合う二人の男女。キャプションによると、第二幕で恋人たちがそれぞれの想いを確かめ合う場面ということだった。


 その写真と出会ってから、この色鮮やかな世界がマダムの世界なのね、と思うようになった。その色彩感覚は、今のマンション「ヘーヴェ駒込」にも活かされているのかもしれないと思う。レモンイエローの外壁、そしてサーモンオレンジの玄関。そして私の暮らす403号室のドアは、鮮やかなスカイブルーだ。部屋ごとに違うドアの色は、まるでそれぞれの部屋のテーマカラーのようだ。もしかしたら、この「ヘーヴェ駒込」は、マダムの作り上げた夢の城なのかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いているうちに、聖学院の前まで来た。幼稚園から高校までを擁する私立の学校だ。広い校庭と、整然と窓が並んだ校舎を、私は眩しい思いで眺める。そして、校舎を挟んで左右の坂の、どちらを登ろうかと迷う。右の坂は、どうやら桜並木のようだ。真っ直ぐと道が続いて行く様子が見える。


 せっかくだから、左の坂も見較べてみようと足を向ける。左の坂は、家がたくさん並んでいる。右の坂よりは曲がりくねっているようだ。よくよく眺めると、少し進んだところにこんもりと繁った大きな木が見える。なんだか、トトロの森の木みたい……と思いついて、私は楽しくなった。なんだか、こっちの坂の方がより楽しそう。私は、左の坂を登ることにした。



 トトロの森の木みたいと思った木には「スダジイ」という札が付いていた。そして、その近くにはオレンジから黄色のグラデーションの美しい花が咲き乱れている。どこかのお宅のようだけど、なんて素敵な庭園なんだろう……と感服する。可愛らしいベンチも傍にある。まるで、おとぎ話の中に入り込んだみたいだ。



「ママ、ほら、ブロッコリーの木だよ」



 子供の明るい声が聞こえる。若いお母さんとふたり、楽しそうに通り過ぎて行く。なるほどね、ブロッコリーの木ね。確かに、似ているね。私はにっこり笑って、大きなスダジイを見上げる。高い木の間には、妖精が現れてきそうな気がした。


 さあ、坂を登りきったら、殿上湯まであと少し。もうちょっと、がんばって登ろう。私は、再び足を動かし始めた。






(つづく)






駒込珈琲物語

駒込を舞台にした小説。 毎週土曜日に更新中です。

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