12. 殿上湯と、珈琲牛乳フェス
通りすがりの子供が「ブロッコリーの木」と呼んでいた、大きなスダジイの坂を登りきる。左に曲がり、少し進み、Googleマップを頼りに小径に入る。このあたりなのだけど……と、きょろきょろしながら歩くと、目の前には急にレトロな趣きの建物が現れた。大きな紺色の暖簾が風にたなびいている。
「殿上湯」……ここだ。ようやく、辿り着いた。
入り口の横には「珈琲牛乳フェス、裏庭でやっています」というポスターが貼られている。珈琲牛乳のフェス……? フェスって、野外の音楽イベントのことだよな、と最近の音楽に疎い私は、わずかな知識を総動員する。そのフェスが、珈琲牛乳ってどういうことだろう。矢印に導かれて、裏庭に向かう。
裏庭は、まるで小さなお祭りのようになっていた。サンドイッチを売るお店、スイーツを売るお店、そして所狭しと並ぶ珈琲を淹れる道具。まだ開店前なのだろうか、どこかみんなのんびりとしながら、でも生き生きと準備を進めているようだ。ひとりの男性がこちらに気付いて、帽子をとった。
「すみません、11時からなんです。あともうちょっとでスタートなんで、それまでよければ、お風呂でも楽しんでいってください」
「ありがとうございます」
私は笑って、礼を言う。男性は、太陽のように笑い返した。そばにいるお子さんを連れた女性も、花のような笑顔で笑う。そして朗らかに、珈琲を準備する人たちとの話に戻っていく。なんだか、文化祭みたいですごく楽しそう。うきうきしながら、私は殿上湯の入り口まで戻った。
下駄箱は、昔ながらの木の札がついたものだ。番号が、どうやら不規則に並んでいるらしい。この並びは、どういう規則性を持っているのだろう……と不思議に思いながら、スニーカーを入れて、68番の札を取る。そして、ガラス戸を横に開いて、中に入る。十数年ぶりの銭湯だ。
番台では、眼鏡をかけたダンディな男性が本を読んでいた。番台の前には、小さなサイズのシャンプーやボディーソープが可愛らしく並んでいる。ああ、お風呂屋さんって、まさにこういうイメージだわ、と私は嬉しくなった。横を見ると、オロナミンCやいちご牛乳のブリックパック、そしてメキシコの瓶ビールなどが入った冷蔵庫もあった。
「おはようございます」
「おはようございます。ひとり470円ね」
私は財布から五百円玉を出す。十円玉を3枚と、赤い腕輪と札のついた鍵を渡される。温かみのある、どっしりとした掌だ。
「どうぞごゆっくり」
ぺこっとお辞儀をして、女湯の暖簾をくぐる。最初に目に飛び込んできたのは、広い天井だった。なんて、開放的な空間なんだろう。木の床の感触を裸足で楽しみながら、渡された番号のロッカーに向かう。ロッカーはウエストくらいの高さまでで、2段になっている。ああ、これもなんだかすごく、お風呂屋さんって感じ!と、私は勝手に嬉しくなる。
服を脱いで、ボディソープとタオルを持ってお風呂場に向かおうとした時、右手の横に、丸い時計のようなものがあるのに気がついた。体重計だ。おそるおそる、足を乗せてみる。針が、くうんと回る。ちょっと増えたかしら……?私は、金曜の夜にれんげ食堂で食べた麻婆豆腐チャーハンとミニ餃子とビールを思い返す。あれで、ごま団子をつけなければよかったんだろうなあ、と一瞬、後悔する。そういえば、お腹まわりがちょっともたついたかしら。
そんな後悔を振り払おうと、頭を軽く振る。今は、お風呂を楽しもう。そして、お風呂上がりの珈琲牛乳を楽しもう。
私は、ガラス戸をからからと開けた。
「わあ……」
私は、思わず声を上げた。
(つづく)
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